1、中村佳穗,佐藤健,成田凌,染谷将太,玉城蒂娜,几田莉拉,森川智之,津田健次郎,小山茉美,宫野真守,森山良子,役所广司 主演的电影《雀斑公主》来自哪个地区?
爱奇艺网友:《雀斑公主》来自于日本地区。
2、《雀斑公主》是什么时候上映/什么时候开播的?
本片于2021年在日本上映,《雀斑公主》上映后赢得众多观众的喜爱,网友总评分高达4194分,《雀斑公主》具体上映细节以及票房可以去百度百科查一查。
3、《雀斑公主》值得观看吗?
《雀斑公主》总评分4194。月点击量669次,是值得一看的动漫。
4、《雀斑公主》都有哪些演员,什么时候上映的?
答:《雀斑公主》是2021-07-15上映的动漫,由影星中村佳穗,佐藤健,成田凌,染谷将太,玉城蒂娜,几田莉拉,森川智之,津田健次郎,小山茉美,宫野真守,森山良子,役所广司主演。由导演细田守携幕后团队制作。
5、《雀斑公主》讲述的是什么故事?
答:动漫《雀斑公主》是著名演员中村佳 代表作,《雀斑公主》2021年在日本隆重上映,希望你能喜欢雀斑公主,雀斑公主剧情:影片讲述着在一个拥有50亿用户的元宇宙U中,每个人都能开启自己的人生17岁高中生铃,因年幼时母亲离世而变得沉默寡言。她不愿与父亲交流,不愿再开口唱歌,甚至对一直守护自己的阿忍也渐行渐远。为逃离灰色的生活,铃选择进入元宇宙的世界,摇身一变迅速走红成为闪耀的顶流歌姬。此时,她的巨星之路随着“竜”的意外闯入,而演变成一场充满未知的冒险出逃。雀斑公主和神秘“恶竜”的真身有着怎么样的纠葛?他们又该如何用爱和勇气对抗现实的刺痛?
前提,我不否认动漫有美化人设以及和现实不能一概而论的背景,但这并不能为这部电影糟糕的剧情做背书,总之这是一部莫名其妙的完成度很低的作品,三颗星全部都是打给画面制作和音乐的。
说实话,的确是因为被片头曲吸引了,而去看了这部电影,虽然是细田守近几部作品的表现并不是那么的突出,但是在看到这个非常类似于夏日大作战的动漫的时候,还是迫不及待地在首映日去看了。
然后看完后只想说一句,非常的莫名其妙,首先,这个故事背景跟夏日大作战中人机交互的虚拟世界的背景设置很像。但是这部剧的圣母心完全就是另一个层次了。女主的母亲在她年幼的时候,为了救一个毫不相关的小孩,在几乎确定会出事的前提下,舍弃自己的生命,去救别人的孩子。然后导致女主在没有母亲的关怀下长大。女主因此变得非常的内敛,然后不肯表现自己,但是因为这个虚拟游戏的出现,她的音乐才能得到了发挥,得到了很多人的宠爱。这个时候突然莫名其妙的,我们的男主龙就出现了,他作为一个喜欢挑战权威,挑战光伟正的这样一个酷男孩反派角色得到了我们女主的瞩目,然后我们女主变得想了解他。这个故事本来没有什么新意。
可能有一段时间还会让你误会这个游戏中的酷男孩,龙,就是现实中默默关心女主的青梅竹马。这里出现了一个反转,并不是。如果其实故事到这里戛然而止,可能也是一个6:.5~7分左右的青春电影。轻喜剧歌舞剧恋爱倾向,画面非常精美。然后其实没有什么内涵,也没有关系,但是作者导演又偏偏想要探讨这种人与人之间细腻的情感。然后表达出就算有一个虚拟的完美的世界,我们还是需要在真实的世界中互动,我能理解到他想表达的这个心情,但是导演讲述故事的方式非常糟糕。
首先男主角龙,他之所以喜欢挑战权威,是因为他现实中是一个被家暴的,然后尝试保护自己弟弟的这样一个男孩。然后他也是丧母,他的父亲在媒体采访的时候,表现的非常光伟正,然后说自己照顾家庭很好,但其实在背后都是用非常pua的方式来对待他的两个儿子。言语上和行为上都非常的暴力。然后探讨家暴也是个很好的话题,但是导演处理的非常粗暴,在女主想要找到这个网络世界中最大的反派龙的时候发现他是一个未成年的男孩,然后在一个被家暴的环境中,然后你可能会以为她想发动这种全网络的力量去帮助他,并没有。在电影高潮,接近尾声的时候,故事的设置是我们的女主。在一众现实中的亲朋好友的注视下,自己坐上长途大巴,从非常遥远的地方去到了正在被家暴的男孩的城市,一个人未成年女孩去对抗一个成年的家暴男性。然后我们的导演设置的神秘的剧情就是这个家暴自己孩子的父亲,在看到女主坚定的不畏强权的眼神下,退缩了,痛哭流涕的跑掉了。但是这样的剧情显然非常的不合理。也明明可以有更明智的处理方式,同样可以达到探讨人与人之间的关系,还有家暴,还有女性成长的话题,但是很显然,我们的导演并不想做这样的延伸。他可能觉得只要有了这样精致的音乐和精致的画面,还有自己的口碑,他就可以称之为一部电影了。总之看完这部电影的,我心里是闷着一口气的,因为首先这个爱情就非常的莫名其妙。然后女主的圣母心也非常的不可思议。然后对于家暴的处理和公共机关的这种介入,也是完全不存在的。所以完全你不能理解。导演到底想在传达什么信息,我觉得也没有任何正面的意义。
我觉得我愤怒的一个很重要的原因是导演作为一个男性,以男性的眼光试图去解析女性的为他人牺牲,并且赞扬这种圣母心的行为,让我觉得非常的恶心。因为在女主坐长途大巴试图去拯救男主的时候。她给自己常年没有好好沟通的父亲发信息,她的父亲说,你母亲把你教导的很好。你是一个很体贴他人的人。我并不是否认孤勇,我是在质疑女性在“拯救”别人的时候,一定要是以血肉之躯为别人牺牲才值得歌颂吗?虽然女主在这部电影中并没有受到非常大的伤害,只是脸被男主的父亲打伤了。但是这样的设置让我觉得非常的郁闷。
虽然是还在气头上,并不是非常详细的剧情分析。但是我并没有在这部电影中看到打动人心的真善美,也没有看到合理的故事脉络。整体非常零碎,在你试图拼凑的时候发现基本都是烂玻璃渣,并不会梳理以后就变成宝石。
所以听听音乐当MV看就好了。
豆瓣的影迷们大家好,我是细田守。由我执导的电影《雀斑公主》很快就要与大家见面了,听说很多人喜欢我的电影《穿越时空的少女》、《夏日大作战》,希望《雀斑公主》也能够受到大家的喜欢。
《雀斑公主》依据的是18世纪法国的童话故事《美女与野兽》,在我小时候就觉得这是个特别的故事。通常情况下,美女是不会爱上野兽的,但这个故事颠覆了以往的价值观,这种反转很有意思。我1991年大学毕业加入东映动画,就在这时,迪士尼的《美女与野兽》(1991)上映了,一切竟然是那么的美妙,看了《美女与野兽》之后,我觉得自己如果能做出这样的作品就好了,正因如此,我一直在想着“有一天我要制作自己的《美女与野兽》”。
当我有机会凭借《未来的未来》获得美国奥斯卡提名时,我想是时候可以自信地制作属于自己版本的《美女与野兽》了,时隔30年我终于做到了。
但是,我认为在现代生活中重复经典是没有意义的。
要在现代社会复兴一个经典,需要有必然性。如今互联网正迅速发展,每个人都参与其中,我们已经无法脱离互联网来谈论社会。我认为互联网和现实的二元性(即互联网上的自我和现实中的自我)会与《美女与野兽》中的野兽的二元性(外表暴力但内心温柔)产生共振。此外,在18世纪的版本中,女性被塑造得很单一,而我们要在现代互联网语境中描绘《美女与野兽》,就要确保女性的双重性得到展现。所以如果让我用几个词来向中国观众介绍这部电影,那就是“现代互联网世界的‘美女与野兽’”。
《雀斑公主》中有一个名为“U”的世界——U是宇宙(universe)的U,也是乌托邦(utopia)的U。这是一个现实中不存在的、巨大的互联网世界,我把它描绘成这样一个全球化的世界,我们在这个不同的世界里,拥有一个不同的自我,存在不同的规则。在U世界里,有着现实中不可能的规则,在现实中不被重视的人可能会被重视。年轻人向往这样的世界,我也认为应该如此。
因此,我决定与全球创作人员一起设计该世界中的虚拟形象(在影片中称为“As”)。我们请来迪士尼的Jin Kim来设计主要人物贝儿,他因作为《冰雪奇缘》中的角色设计而闻名,另一方面,我们邀请在英国的Eric Wong创造了U世界,他是一位27岁的建筑师,以前从未参与过电影工作。我们还找到了动画师汤姆·摩尔(Tomm Moore)的爱尔兰Cartoon Saloon工作室。全球人才的汇合,让“U”这个全球性的世界变得更加有说服力。
20年以来我都在创作以互联网为背景的电影,描绘互联网是如何改变时代的。以前制作《数码宝贝》的时候,互联网是一个新鲜的、方便的“工具”。 大约10年后的《夏日大作战》里,已经是从儿童到老人、每个人都可以通过手机访问互联网的时代,于是我想到要拍一部关于一个乡下大家庭的电影,从孩子到老人都与互联网上的敌人作战的故事。今天,互联网已经不再是一个“工具”,而是已经成为“另一个世界”、另一个等同于现实的世界。这意味着我自己就是另一个人,这是一个多元宇宙的世界,我们拥有多种人生。
世界不止一个,人生不止一个,我也不止一个,这样的时代以前从未存在。
其实当我们在制作《雀斑公主》时,还没有人在谈论 “元宇宙”。只不过当Facebook将其名称改为Meta(《雀斑公主》在日本上映后)并表示将把元宇宙作为其主要业务时,这个概念开始流行起来。从我们的创作脉络看,可以说是每个人都在期待着元宇宙,这是一个有无限可能性、可以自由尝试的地方,也是一个与现实规则不同的公平世界。即使是铃,一个生活在日本农村的平凡女孩,也可以在这里尝试她的才能。
现在的年轻人认为这个现实世界是不公平的、成人社会是灰色的、充满矛盾的,他们没有得到公平的看待。我想,现代的年轻人很难对未来有梦想,日本社会如今一直留有封建的部分,告诉着每个人应该如何生活。这就是为什么年轻人需要另一个世界,并希望在其中自由地尝试他们的力量。互联网正承载着这些人的欲望和期待。我们一直认为每个人都要在可尝试的范围中选择自己的未来。但现在我们处于一个多元化的时代,社会的活力是建立在利用每个人的不同才能之上的。
技术会改变我们对人、生活和社会的看法,年轻人也将建立一个新的时代,所以我拍了这部电影来支持他们。其实在制作电影的时候,人们往往会倾向去刻画一个反乌托邦(dystopia),这些是成年人们忧伤的表现。但是,动画电影是为年轻人服务的,我希望它们是支持年轻人的,也应该乐观地看待必将到来的技术发展。
这就是为什么我们要在互联网上追求一个不同的世界,因为我们想自由自在地生活。我就是想通过《雀斑公主》中的“U世界”,创造一个人人都憧憬的世界。主人公是一个生活在日本乡下一个角落的女孩,她缺乏自信,但由于互联网世界,她可以在世界中心尝试另一个版本的自己。我制作《雀斑公主》就是为了表达这种希望。
新冠肺炎疫情爆发以来,全世界的生活、娱乐和交流都不得不通过互联网进行,这种互联网化的社会样态本来可能是十年之后的事情,却随着新冠的发生而已经成为现实。中国是世界上互联网社交和丰富生活等方面最先进的国家,比日本要先进得多,我感觉中国正生活在未来的世界里。从这个意义上来说,这些变化让《雀斑公主》成为了一部非常有现代性的作品,中国的观众更可以与《雀斑公主》产生共鸣。希望人们一定要在大屏幕上观看。
有关影片的结尾,我也想在这里分享一些自己的想法。
可能有人会认为弱小的铃对抗对方是不合理的,这或许还是认为铃和贝儿是两个不同的人。我认为,铃就是贝儿,贝儿就是铃,这不是说铃等于弱者,贝儿等于强者,而是说在同一个人身上有这两种元素:她缺乏自信,但同时也是强大的。
因此,并不是说铃必须要变成贝儿才能成为强者。在现实中并不自信的铃,通过另一个世界的另一个自己——贝儿,获得了自信、变得坚强。另一个层面是,铃的母亲是为了救一个连名字都不知道的孩子而死,而铃通过成长战胜了过去的痛苦。
所以,当铃回到现实时,并不能说还是那个弱小的铃,如果她变强大,那就是成长让她变得这样了。铃周围的长辈们也知道她已经长大了,并尊重她的决定,让她一个人去了东京。
这就是活出两个自我的意义,也是这部电影所描绘的内容。
我认为,电影不仅是为了让观众得到感官的享受,还要反映一些当下的情况。我希望通过拍一些以前从未表达过的电影,扩大表达的可能性。
从这个意义上说,地图工作室希望尽可能地涉足新的领域,尽可能以动画的方法制作出以前没有过的电影。我想超越“动画应该是什么样子”的固有观念,比如《雀斑公主》描绘一个复杂的家庭环境,《狼的孩子雨和雪》探讨了单身母亲的问题,而《怪物之子》涉及了儿童贫困和其他非典型动画的主题。这并不是说我想创作所谓的“社会派电影”,而是有些时候,我们必须面对艰难的现实问题。这并不容易,但通过创作这样的电影,我在思考如何与现代社会中的观众共同经历,虽然现在世界处于一个困难时期,但我想和那些也意识到这些问题的观众们一起,去克服这个问题,并产生情感的连接。
世界は一つじゃない、人生は一つじゃない、自分は一つじゃない。
「Douban」の映画ファンの皆さんこんにちは。細田守です。僕が監督した映画『竜とそばかすの姫』がもうすぐ中国で上映されます。僕の過去作品の『時をかける少女』や『サマーウォーズ』は中国でもファンが多いと聞いていますが、『竜とそばかすの姫』も、多くの皆さんに好きになってもらえると嬉しいです。
この「竜とそばかすの姫」のベースとなったのは、「美女と野獣」という、18世紀のフランスの物語です。この作品は僕にとってずっと特別な存在です。普通、美女は野獣と恋に落ちたりしないわけですが、この物語はそんな価値観をひっくり返す。そんな逆転劇が面白いなと思っています。僕は1991年、大学を卒業して東映動画に入りましたが、ちょうどそのころディズニーの「美女と野獣」(1991年)が公開されました。そしてこの映画が、1992年日本で上映された。とても素晴らしくて、こんな作品が作れたらいいなと思うようになった。そんなわけで、いつか僕なりの「美女と野獣」を作りたいと、ずっと思っていたんです。
「未来のミライ」で米国アカデミー賞にノミネートされる機会を得た時、今なら自信をもって自分の「美女と野獣」が作れるのではないかと思いました。30年越しで、です。
ですが,古典を現代に甦らせるにはそれ相応の理由がないと意味がないと考えています。
古典を現代に甦らせるには必然性が必要です。現在インターネットは急速に拡大し、皆が参加しています。もはやインターネット抜きでは社会を語れなくなっていますが、インターネットと現実の二重性、つまりインターネット上の自分と現実の自分、それが「美女と野獣」の野獣の、暴力的な外見と優しい内面の二重性と響きあうなと思ったのですね。
また、18世紀のフランスの「美女と野獣」は、当時は封建社会なので、美女は一面性しか描かれていないのだけれども、現代のインターネット世界での「美女と野獣」を描くのであれば、美女の方も二重性を問われるようにしようと考えました。ですので、中国の皆さんに一言でこの作品を紹介するならば、“現代インターネット世界の「美女と野獣」”です。
「竜とそばかすの姫」に出てくる、 “U”(UniverseのUだったり、UtopiaのUだったりします)という世界があります。まだ現実にはない広大なインターネット世界です。僕はその世界を、違う自分がいる、違うルールのある、そんな現実とは違うグローバルな世界として描きました。
“U”の世界では、現実ではあり得ないルールで、現実では評価されない人が評価されるかもしれない。若い人はそういうところに希望を持っているし、そうあるべきだと思っています。
なので、その世界のアバター(劇中では“As”と呼ばれる)は、グローバルなスタッフでデザインすることにしました。主役ベルのデザインをお願いしたディズニーのJin Kimさん、この方は“Frozen”なども担当している有名な方ですが、一方で、“U”の世界を構築してくれたイギリス人のEric Wongさんは、映画の仕事は初めての27歳の建築家で、彼は無名でした。あとは素晴らしいアニメーション作家のトム・ムーア監督率いるアイルランドのCartoon Saloonにも協力してもらい、非常に才能が集う場所になったと思います。それによって、“U”がグローバルな世界だということに説得力を出すことができました。
僕は20年前からインターネットを舞台に映画を作っていて、インターネットが時代を変える様を描いてきました。『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』のころは、インターネットはまだ“新しい道具”でした。そこから約10年経った「サマーウォーズ」のころは、日本では子供からお年寄りまで誰しもが携帯からインターネットに接続可能な時代になっていて、なので、子供からお年寄りまで、田舎の大家族がインターネットの敵と戦うという作品を考えました。現代では、それはもう“道具”ではなくて“もう一つの世界”になったと思いました。すでに現実と等価なもう一つの世界だと。それは自分自身がもう一つあるということ。マルチバースの世界ですよね、僕らの人生も複数あるという。
世界は一つじゃない、人生は一つじゃない、自分は一つじゃない。そんな時代、今までないですよ。
「竜とそばかすの姫」を作っていたときは、誰も“メタバース”なんてことは言ってなかったんですよね。(日本で劇場公開された後)Facebookが社名をMetaに変えて、事業の柱をメタバースにすると言ったことで普及した。ここまで僕たちが作ってきたものから見れば、誰しもが無限の可能性を持っていて、自由に挑戦できる場所がメタバースには求められているのではないかと言えます。現実とは異なるルールで運営されている公平な世界、つまり日本の片田舎に住むコンプレックスのある少女・鈴でも、自分の才能を試すことが可能な世界です。
今の若い人はこの現実の世の中が公平だと思っていないですよね。大人社会はグレーで矛盾に満ちている、自分は正当に評価されないのではないかと思っている。思うに、今の若い人は未来に思い描くような夢を持ちづらいってことがあるんじゃないかな。日本社会はこれまで封建的な部分があって、その延長線上として、この人はこうあるべきというような型にはまった世界を常識としてやってきたわけです。だからこそ、若い人はもう一つの世界を必要としていて、かつそこで自分の力を自由に試したいのだと思います。しかし、今は多様化の時代で、一人一人がもつ違う才能を生かせることが社会のダイナミズムだとされている。
テクノロジーは人間観、人生観、社会観を変化させる。そういう中、若い人が新しい時代を築いていくので、僕としては若い人を応援したくてこういう作品を作った。よくこういうのを映画で描くときはディストピアを描きがちなんですけど、そういうのは大人の憂鬱の代弁だよね。アニメーション映画は若い人のためにあるものだから、若い人を応援するものでありたい。テクノロジーの進化を肯定するものであるべきだと思いました。
僕たちは違う世界をインターネットに求めたいし、そこで自由に生きたいのだと思います。なので「竜とそばかすの姫」の“U”は、誰しもが求める公正な世界にしたいと思いました。
主人公は自分に自信がない、日本の田舎の片隅で生活している女の子だけれども、インターネット世界があることによって、世界の中心でもう一人の自分を試すことができる。そういう希望を表現したいと思って作ったのが「竜とそばかすの姫」です。
コロナ禍以降、全世界的に、仕事や生活、遊び、コミュニケーションはインターネットを通して行わざるを得なくなった。本来であれば10年先だったかもしれない、インターネットの世界化が、コロナ禍で現実となった。
中国は世界で最もインターネットにおけるコミュニケーションや人生を豊かにする活動が進んでいる国だと思う。日本よりよっぽど進んでいますよね。中国は未来の世界を生きているように見える。そういう意味で「竜とそばかすの姫」は共感してもらえるんじゃないかと思います。ぜひ大きいスクリーンで観てほしいですね。
次に、映画の結末について自分の考えを共有したいと思います。
弱い存在である鈴が敵に向かっていったのが合理的ではないと思う人がいるかもしれません。恐らくこういう風に思った人は、鈴とベルが別人だと思ってるんじゃないかなと思います。鈴はベルであり、ベルは鈴なんですよね。鈴=弱い、ベル=強いじゃなくて、同じ人間の中に両方の要素があるわけです。自信の無さと、強さと。
なので、ベルでないと力を発揮できないわけではないんです。現実では自信がなかった鈴が、もう一つの世界でもう一人の自分であるベルを通じて、自信を得て強くなる。
あともう一つは、鈴のお母さんは名前も知らない子供を助けるために亡くなってしまうわけですが、鈴も自分が成長したときに母親の死を乗り越えます。
ですので、現実に戻った鈴が弱いままかといえば、そうではないですよね。強くなったというのは、成長です。鈴のまわりの年長者も、鈴の成長を知り、彼女の判断を尊重して一人で東京へ行かせます。そこに二つの自分を生きることの意味があって、それを描くための映画でもあるのです。
映画は、ただ観ているその瞬間を楽しむだけのものではなく、今日性を反映してしまうものだと思う。これまで表現されてこなかったような作品を作ることで、表現の可能性を広げていきたいと考えています。
スタジオ地図はそういった意味では、なるべく新しい領域に踏み出したい、なるべくこれまで作られてこなかったような映画を、アニメーションという技法を通して作りたいと思い、やっています。
僕はアニメーションはこんな感じでしょうという固定概念の範囲を超えたいと考えています。例えば「竜とそばかすの姫」では複雑な家庭環境を描き、「おおかみこどもの雨と雪」ではシングルマザー、「バケモノの子」では子供の貧困など、アニメーションらしくない題材を扱いました。
社会派の作品を作りたいわけではないですし、現実のしんどい問題と向き合わざるを得ない瞬間もあって、生易しいものではないですが、しっかりそういうものを作ることで、現代を生きる観客とどう生きるかを一緒に考え、共感を得たいと思っています。
小时候看《流星花园》,最戳中我恋爱幻想的一幕,并非是杉菜穿着公主裙和高跟鞋走下晚宴的阶梯,也并非是道明寺将伤痕累累的杉菜抱起来,颤抖着说什么“只要你说没有,我就相信你”。而是后期被坏人绑架时,道明寺跑过来救杉菜而遭到群殴——当坏人用力抄家伙砸向道明寺的时候,杉菜飞奔过去,挺身挡在了他面前。
所谓终极fantasy,就是去做一些现实中难以实现的事,例如去保护一个看似比自己强大的人。
据说每个女人体内都住着一个地母,会在面对外力伤害时展现出一种天然的慈悲和宽厚,而这种力量会使她由一个“天生的弱者”变成魅力超凡的女神。
“地母”这种说法,近年来被认为是男权社会哄骗女性主动牺牲的谎言——这样理解倒也没错。迪士尼的童话故事《美女与野兽》只给我们展现了绮丽的外衣:善良聪慧的贝尔用她无私的爱拯救了迷失的野兽,最后成功将他变回了英俊的王子。
若是去除掉意象化的城堡和魔咒,这个故事的本质内核,无非是一个女性不断包容一个品性有问题的男性,用自己的爱和忍耐将他慢慢变好。
这个故事里,野兽的自私和冷酷都被一笔带过,仿佛“爱”便是治愈一切的万灵药。
在冷暖自知的亲密关系里,这种将心酸血泪抹去不提、只展现幸福美好的导向性讲述,的确是个极大的谎言。
被《美女与野兽》打动的导演细田守,三十年来一直想做一部自己的《美女与野兽》。于是他在作品《龙与雀斑公主》中,用了当今网络元宇宙的概念,讲了个日本乡村少女在虚拟世界里焕发强大力量的故事。
导演毕竟是个男性,在探索女性内心世界的时候总是隔着一层影影绰绰的幻想。
影片中,女主角的母亲便是个完美的母亲形象,她给女主角带来了童年全部的快乐和光彩,而女主角的父亲则永远像是个沉默的剪影。在女主角的母亲因舍己救人而丧生之后,女主角的人生变得黯淡无光,她与父亲的交流乏善可陈,自己也从此唱不出动听的歌曲。
直到进入了虚拟的网络世界,女主变得漂亮自信、歌喉动人,成为了万众瞩目的大明星。
影片中的设定是,在这个代号为U的虚拟世界(既有元宇宙的意思,也有乌托邦的意思)里,人可以突破自身的极限,做到自己在现实中难以达成的事。
所以满脸雀斑、自闭胆怯的少女,一跃成为了技惊四座的天后歌星。
U代表着一个平行世界,使那些在现实中弱小无助的人,在这里打开一种全新的可能性,塑造一个现实中最向往的虚拟形象。
在那个世界里,化名为贝尔的女主角通过歌喉吸引了恶龙,并且勇敢探秘恶龙的城堡。
我看的过程中就在祈祷:这个恶龙的真身可千万别是女主角在学校里暗恋的男生,那样就实在是太恶俗偶像剧了。
幸好不是。
恶龙的真身是一个住在东京的、和女主角素昧平生的小少年,他在现实中遭遇父亲家暴,还要努力用弱小的臂膀保护比他更年幼的弟弟。所以到了虚拟世界里,小少年变成了处处挑战权威破坏规则、令人闻风丧胆的恶龙。
虚拟世界里的贝尔和恶龙之间,也并非是爱情这么简单。
她看到他身上的伤痕,看到他横冲直撞的无措,所以想要去靠近他、了解他、保护他。
这个阶段,便是“地母”情怀在女性灵魂里的觉醒。
随着不断的寻访调查,女主角在这个同样没有母亲、同样伤痕累累的小少年身上,看到了与自己相似的怯弱。所以她鼓起勇气撕开自己华丽的伪装,以满脸雀斑、长相平凡的形象出现在那个虚拟世界里,鼓起勇气唱出了同样动听的歌曲。
原来,即使没有华丽的外表,她也仍然能拥有触动灵魂的美妙歌喉。
那才是她内化的精神力量。
另一方面,在现实世界里,女主角勇敢坐上火车跑去东京,在那个暴虐的父亲面前挺身保护了那两个战战兢兢的小少年。大雨中,她和两个比她矮小的男孩子紧紧抱在一起,然后转过身去,以一种凛然无畏的目光,凝视着面前那个高大壮硕的男人。
影片里并没有交代,后来两个小少年的家暴困境是如何得到解除。倘若扯开来讲,这个故事的篇幅会拉长不少,重心也要被模糊了。
由于这场对峙的虎头蛇尾莫名其妙,导致这部影片在豆瓣上评分不高,远远比不上烂番茄的评分——近年来中国人对“圣母行为”早已PTSD,所以在大部分国内观众看来,女主角的保护行为纯属异想天开,而那个暴虐的父亲也断然不可能如影片中那样,被一个小女孩吓得落荒而逃。
其实我觉得,不妨把“去东京保护小少年”这段剧情,也看作少女中二想象的一部分。
在少女的内心世界里,由头到尾她救赎的对象只有她自己。靠近恶龙是因为在他身上看到了自己,坐上去东京的火车,也和她走进恶龙的城堡一样——救赎的对象从来不是指向外界,而是指向自己的内心。所以她最后学会了放开怀抱,她终于能在现实中勇敢唱歌,她也终于能和父亲一起心平气和地吃一顿鱼肉碎。
她暗恋多年的那个高大俊秀的少年,也在最后说了一句:终于可以不用守护你了,终于可以正常和你交往了。
她原以为,自己之所以暗恋对方,是源自于对方儿时对她说过的一句“我来保护你”。
在她自闭寡言的阶段,当少年想要靠近询问她的心事,她却甩开他落荒而逃。因为她不喜欢那样的姿态,她觉得对方光芒耀眼,而自己黯淡又糟糕。
最后,少年看到了她在虚拟世界里的光芒,听到了她动人的歌喉,也见到了她勇敢保护他人的勇气。所以少年终于松了一口气,可以心平气和地向她表达自己的爱慕。
无论是去城堡拯救恶龙,还是去东京拯救被家暴的少年,她由头到尾拯救的都是那个自闭胆怯的自己。
我们当然可以理解为,因为导演是男性,所以他眼中只有女主角和女主角妈妈的那些“圣母行为”,却并不了解这些行为的底层逻辑。
这让我想起几年前的一段社会新闻,说是随着抖音传入农村,有一种拙劣的骗术非常猖獗:一群骗子拿男演员靳东的照片剪成短视频,靠这副熟男的外表吸引农村里的大妈。骗子会在视频里配上假得不得了的画外音,大意是说自己最近陷入了困境,于是这些被他们称为“姐姐”的农村大妈们,便源源不断地将自己微薄的积蓄转账给骗子,甚至整天满面红光地捧着手机叫“东弟”,对自己现实中的丈夫不理不睬。
这段社会新闻当时被传为奇谈,许多人痛斥骗子,也有人嘲笑大妈异想天开,而我在这里面看到的只有无穷的寂寞和无助。
那些农妇从小便被看做生育和做家务的工具,由于接触不到更多的信息,她们便也以为理当如此。她们如行尸走肉般辛勤劳作和服侍自己的枕边人,直到手机里出现一个英俊的男人,口甜舌滑地管她们叫“姐姐”。
哪怕一切都假得经不起推敲,她们也愿意付出毕生积蓄去维持这个美丽的幻觉。
在那个新闻里,许多大妈都表示自己心甘情愿,甚至从来没想过要和那个拿走了自己毕生积蓄的“东弟”见面。她们觉得自己肮脏丑陋配不上对方,只希望对方拿了自己的钱,能够因此过得稍微好一点。
这个新闻背后的行为逻辑,令我慨叹不已。
世间每个人都有情感需求,也都有自我实现的需求。即使是生活在一个闭塞的环境里,即使此生都没有机会去探索更大的世界,但她们的内心深处终究有一股力量,让她们无法甘心认命,让她们向往着某种崇高和伟大,想让自己在某个平行世界里发出一点不一样的光。
即使我在现实中渺小又孱弱,我也想要有能力去守护一个遥远的人。
我想,这才是女性“地母”行为的底层逻辑。
它可以与爱情没有关系,与事业和成就也没有什么关系。那就只是一种自我实现,是渴望着有一个自己能战胜现实的渺小和枯燥,推翻秩序的枷锁,焕发出强大的能量。
我们每个人都同时是那个光芒万丈的公主,也是那个伤痕累累的恶龙。
这两种形象,无非是我们在面对那些令人窒息的秩序时,凝聚起来的丝丝缕缕的不甘心。而这份不甘心,并非是任何外界力量能够保护和救赎的。
就像《哈利波特》里,那个守护着他打败摄魂怪的,其实只是另一个时空的他自己。
当贝尔勇敢地走进那个废旧的城堡,伸手摸到那些娇艳的玫瑰,当她目光凛然地望着虚拟世界的大反派和现实世界的家暴男——或许当时当刻,她看到的是自己童年时那些闪光的回忆,看到的是她怎么哭喊着也留不住的母亲。
也是在那一刻,她决定和现实达成和解。
现实中的遗憾和痛苦从未消失,只不过是换了个角度看,它们便再也无法伤害你。从此以后,你不再需要任何人的保护,因为当你有胆量直面内心深处的崎岖嶙峋,你便也终于具备了守护自己的力量。
当我们逃到二次元里时,二次元人物们却逃到了U世界里,并努力成长,学会勇敢面对自己的人生。
看完电影,第一感觉是:好看!而且是超出我想象的好看。进电影院以前,我在豆瓣上刷过剧照,
其实看着剧照,我有点……反感。
我个人不太喜欢这种一大堆鲜花钻石装饰的洛可可少女风……
但是!!!
说真的,在电影院里看完,完全没有我刚开始看剧照的反感。反而觉得这种高饱和度眼花缭乱的东西放在剧情里是相当合理的。
就是那种:外表不代表全部,看照片喜不喜欢和看到真人喜不喜欢完全是两回事儿!
另外,我看的是杜比音效的但没有3D眼镜的大荧幕放映,华丽的画面和目不暇接的各种效果再配合音乐和歌,综合在一起给我一个感觉就是:二维电影啊!我竟然没带3D眼睛却感受到了华丽丽的3D效果!
所以写电影内容感想以前,我先大声呼吁一下哈,目前这个片子貌似已经有不同版本了,但如果有选择的话,一定一定要去电影院看!特别是U世界里的各种光怪陆离的角色,小屏幕就大概只能看到一堆东西挤在一起,但大屏幕里那种U世界群众们千奇百怪的多元化效果,马上就有一种“不愧是二次元啊”的丰富感。
二次元与U世界元宇宙:
最近10几年,“二次元”这个词越来越被人接纳和使用。
某种意义上来说,二次元代表着想象中的架空美丽,在二次元世界,有超能力、法力、魔力都是再自然不过的事儿了。
然而当我在看这个电影的时候,银幕上二次元里的少女,却因为无法面对自己世界的重荷而逃进了虚拟“U”世界!也就是满足二次元人物内心需求的架空元宇宙——U世界——再次重塑自我,带着面具打造自己新的形象和虚拟人生。
而且这个U世界的用户面具除了拥有唯一性,还可以把原先生物体本身所拥有的才华能力毫无心理障碍的表现出来。也就是说让才能自然而然的发挥出来,不会害羞,也不用不好意思,不用忍耐,不用有任何顾虑。
所以Bell可以轻易开口歌唱,龙可以几乎战无不胜。
电影想说点啥?
如果一定要总结中心思想的话,我觉得应该是:每个人心中的“逃避”与“面对”。
电影里有几个小配角,貌似和故事主线无关,却总觉得他们的存在已经在暗示着电影想说的意思了。
比如:
被怀疑是龙的棒球手
因为手术疤痕一直避免伤口暴露,却在关键时刻决定对媒体公开自己遍布伤痕的身体,不仅证明了自己不是龙,同时也鼓励更多生病的人:即便儿时这样的身体也有机会成为优秀的体育运动员。
网络世界里小婴儿——现实世界里伪装的幸福贵妇。因为太在乎别人的眼光,即便是现实世界也伪装并活在虚假的幸福中。
当然女主的成长也是一条主线,直接代表着从逃避到面对。
女主的成长
虽然女主的成长线路跨越了现实和虚拟两个世界,但最终完成的是从“活在别人的眼光中”到“逃避现实”再到“勇敢正视自己”并“拯救他人”的过程。
关于成长,电影里给了好多里程碑一样的标志,我整理下哈。
1,铃(不是Bell)的三次歌唱
铃一开始,活在母亲死后,他人的语言“暴力”影响下的环境中。
明明她的母亲是牺牲自己就落难儿童的人,应该是英雄才对。但却被毫不相干的人随便评价为“逞能”“丢下自己孩子不负责任”等等。这种阿猫阿狗的大人随口扔出来的评价是一种语言暴力,发言的人却不自知,却让小铃活在这种语言的暴力留下的一片狼籍中。沉默的女儿拼命写下对母亲扔下自己的抱怨,再全部涂抹掉,留下一屋子满地苍夷,可以窥见这个女孩子是怎样在扭曲中拼命挣扎。
虽然表面看起来她在学校里只是毫无波澜沉默寡言的无奇女生。但画面中出现有缺口的杯子,三条腿的狗,已经暗示了她的生活是残破的。她拒绝父亲的关心,尽量不让自己表露太多情绪,故意让自己不要引人注意,这都是在失去母亲后的压抑中被迫形成的。原本母亲在的时候,她活泼开朗,并对音乐有着天赋。然而在母亲去世后,盼随着母亲的离开,就再也无法开口歌唱了。
原本的天赋被心理上的扭曲所压制,冬天的桥面上,努力张口歌唱的她,竟然……吐了!因为歌唱代表着和母亲联系在一起,而明明母亲留给铃的印象是那么快乐,那么亲切,却在死后被人评价不负责任逞强,还让铃活在阴影中。情绪巨大波动、压力、内心拧巴、悲伤与快乐的回忆一起扭曲在一起,好像塞在胃里的一个硬块,变成胃部紧缩的生理反应……
这是铃的第一次歌唱,以失败告终,并让让她开了U世界的账户。
在U世界成为Bell后,突然爆红从某种程度上来说,已经激励了现实世界的铃。当铃第二次歌唱,是为了“在意”的人写一首歌。这个时候的铃已经可以主动歌唱了,虽然仍然是在一个人的世界里。
第三次歌唱是Belle的华丽褪去而仅以高中女生的单薄身姿在U世界众人前放声高歌。这次歌唱需要巨大的勇气,需要退去Belle的浮华,正视自己勇敢的放声歌唱。
衣着简单长相不出众的铃反衬出U世界各种光怪陆离的形象,巨大的对比下,再次衬托出铃的魅力并不出自外表而是内心的歌声。
2、关于女主的名字(铃-Bell-Belle-铃),也是一条成长线
铃最初注册的用于名是bell,就是英文的铃。
却在她拥有亿万粉丝后,别大家读结成了Belle,并且还加上了法语美丽的意思。
其实我自己觉得在龙登场以前,她都只是Bell。而并不是Belle。一直到她到了龙的城堡。
美女与野兽的童话故事这一刻才真正拉开序幕。
Bell开始有了童话中Belle的使命,她需要把龙从痛苦中解救出来。
说到龙,我挺喜欢这个剧情的安排。
正常按照看电影的套路,龙应该是学校的忍才对。但居然在万般猜测中,出现了惠这个Nobody,让人大跌眼镜的同时,更加好奇剧情要怎么发展。
显然Belle和龙在U世界里应该是相互吸引的。虽然不知道如果发展下去,未来会不会产生爱情,但刚开始绝对是某种“相似气质“才让双方注意到彼此。
现实世界两个人都丧母,都在暴力中(一个是父亲的家暴,一个是周围人语言的暴力)不堪重负而逃进U世界,也都在U世界中爆发了潜能而受人关注。而且在光环之下,彼此也隐隐约约能感受到对方那种“痛苦挣扎“的气息,而产生了“我要保护(拯救)他/她”的想法。龙在网络维护贾斯汀的追击下,自然而然的出现保护Belle,而后面Belle变回铃时,放声歌唱的瞬间,心里出现的是自己母亲曾经为了保护不相识的孩子而奋不顾身的画面。
母亲画面的出现刚好印证了铃的成长,从那个“拧巴中写下对去世母亲的怨言的无闻少女”到“为了要保护别人而勇敢面对”的铃。
从铃到Bell到Belle再回到铃,并直面问题所在。
现实世界的问题,必须回到现实世界解决。
虽然铃只身跑去东京那一段,我觉得有点超现实了。不过我也不是电影编剧,我也想不出更合理又现实的击退对方剧情。我想我大概能明白“也许只有这个不现实的情节才能表达出——必须独立勇敢面对才能解决问题——的意思“。所以合唱团的阿姨们只是送到车站,父亲只是发了短信表示关切和内心的支援,所以几个同学也并没有一同跟去东京,仅仅是铃一个人只身寻找惠的住址,只身保护惠兄弟俩并以纤弱的身体挡在暴力的男人挥舞的拳头前。因为必须由铃一个人面对并解决问题,才能给惠作出榜样:鼓起勇气,独立面对并解决问题。而不是在U世界里逃避,也不是等待他人的救赎。
顺便提下龙(惠),我想所有人在小孩的时候,都有过“等我长大了,变强了就好了”的忍耐。
那种当小孩时候不能“忤逆”大人的无奈和挣扎感,在这兄弟俩身上表现的非常强烈。看到惠趴在弟弟身上拼命内心挣扎着忍耐,看到他弟弟在视频上呼吁人们拯救龙,并反抗大人,我突然想起日本小说家乙一的《濒死之绿》。这部小书里有很深刻写出了关于面对大人,孩子的无助心理。特别是暴力大人的统治下,孩子的一种恐惧、不敢反抗、无助与无奈,无法逃离又找不到解决方法的拧巴状态。
这个日本版《美女与野兽》的故事里,同样是美女拯救野兽,用的是真心和真诚,却不是童话爱情,也没有“从此两个人幸福生活在一起“的一句话结局。女孩子教会痛苦野兽如何正视自己,勇敢面对现实的问题,积极解决,从此两个人可能还会有交集,都努力在自己的人生中寻找各自的幸福。
3、忍
忍的对白并不多,但铃在忍心目中的地位,随着铃的成长而不停发生变化。
忍从守护者到见证者、支持者最后到平等。6岁时保护着她一直陪伴到现在。在母亲去世的最痛苦的瞬间,忍也在身边,铃的一切忍都看在眼里。就好像闺蜜说拿的那句话一样“忍好像铃的母亲啊,总是问铃有没有怎么样,有没有好好吃饭”。忍一直是守护者的地位,但忍并不是男花瓶。内心很清楚铃就是Belle的忍,最关键的时刻,推了铃一把,要求她以真面目对龙,才能换得龙的信任。
我很喜欢最后两个人的那段对话,忍说觉得不再需要保护铃了。这句话让人听着很自然也很舒服。也许只有这个前提下两个人才能真正开始一段平等的恋情。也才能顺利走下去。
说说反面的“恶“。
片子里没有大恶。也就是说其实这个少男少女彼此扶持成长的故事中,并没有明确的要打到的大恶对象,这个也正是现实生活中我们自己成长中的反衬吧。
有很多小恶,有很多必须面对的问题,一个一个去对抗,一个一个去解决。
贾斯汀以及他的队伍是恶的一种,
这些人代表着利用手里的权力假借着正义的名义达到个人目的。
这里多说一句,贾斯汀和他的小队各种豹子头什么的出现的时候,我在电影院里没憋住笑出声来了,这个形象设计是特意向手冢治虫年代漫画致敬吧!还有狮子手臂大钻石,感觉是故意做成那个年代的出产的卡通形象以及武器来和U世界里Belle的形象做对比的。
第二个明显的“恶“是惠的父亲的家暴。这是毋庸置疑的恶。如果不是Belle的存在,很有可能惠会在痛苦中最终遗传这种家暴中的恶,并影响他的未来。据说在家暴中拧巴成长的小孩,很多人不知道应该如何正常的生活长大后会对亲人朋友施以暴力。龙刚开始登场时,周围人对龙的暴力倾向的各种评语也暗示了这一点。
第三个恶,是虚拟的,就是这些对话框。当然并不是所有的对话框的内容都是恶。但不负责任的语言的确会带来恶的影响。
刚一开始,铃就生活在母亲去世后的“语言暴力”中,成年人不负责任随口的评价给少女带来巨大的心理障碍。
U世界里每个人都带着面具,键盘侠更是大放厥词,因嫉妒或者看不顺眼而随便“喷”。
所以随着Bell的粉丝数增加,铃面对无数“负面言论”,这个时候眼睛闺蜜真的是正能量爆棚的存在。她直接就能说中要害:“有一半是负评的话,那就说明还有一半是正评啊!看正评!”
也就是说在铃成为Bell开始学会面对网络键盘侠的时候,在闺蜜的帮助下她的内心也就不知不觉变得强大了。
另外,这个闺蜜的设定也是铃内心成长的一大助力。在U世界里学会无视负评后,有一段忍因为牵手铃而引起校园女生骚动的小风波,很喜欢那个战略游戏地图来叙事的画面,不过抛开画面看本质,这个小骚动一多半是闺蜜给扳平的,但也有一小部分地图是铃自己摆平的。成功收复失地,把同学们的信任拉回来。
虽然这个风波很小,但铃已经在她的现实世界中学会面对周围人的言论并开始学习如何搞定流言蜚语,拨乱反正了。
网络暴力也好,人言也罢,不经意间的语言流露出来的“恶“是存在的,但是不是不可战胜的,在成长中慢慢拥有了强大内心的Belle最终变回了铃,她已经不再是会被别人的语言影响和伤害的无助少女。
虽然铃和龙在现实社会中遇到的困难是完全不一样的,但不再逃避,不再忍耐,鼓起勇气独立面对才有可能找到解决办法这样的态度是一样的。铃的成长最终在拯救了龙以后,教会龙如何成长。
看似铃的成长故事有了结局,其实龙的人生和成长才刚刚开始。
对了,最后想起来,说一下导演细田守,这位导演的众多动画片里,还有一部我超级喜欢的《夏日大作战》,也是讲的二次元里面的人在他们的网络世界里开外挂的,而且是全家人一起凝聚正能量的那种,看得人不停想拍桌子喝彩的那种正面情绪爆棚。喜欢这个电影的人,如果没看过《夏日大作战》的话,可以找找去看哈。
Jensen
NHK曾经在细田守制作《怪物之子》时跟拍了他长达一年的时间,记录了这位当红日本动画导演工作和生活的细节。在一次审片过程中,细田守对着画面的其中一帧提出了修改意见:“汗滴应该更白一些。”他说,“总之,让汗滴看起来更加明显一点。”此时,画面上的男孩——男主角九太,正因为误入怪物的世界而惊慌失措,无路可逃。
这是细田守绝大多数动画电影作品里小人物主角的形象。从《穿越时空的少女》里冒冒失失的真琴、《夏日大作战》里只能当奥数比赛第二名的健二、再到《怪物之子》里失去双亲陪伴的九太。他们像我们每个人一样平凡、身上多少都有点毛病、有点自卑:见到喜欢的人不敢表白,不愿面对自己心中隐隐的梦想,但凡真的发生点好事在自己身上的时候,第一反应是抵抗——人生是不会有那么多奇迹会发生在自己身上的。《龙和雀斑公主》的女主角铃也同样是这样一个人:她天生对音乐有着自己独特的感知力,却因为童年的一场意外,再也无法施展自己的才华;暗恋着和自己一起长大的帅哥青梅竹马,害怕遭受同学们的诽议,只能远远与他躲开。
与好莱坞工业化的电影产业不同,日本动画电影导演在动画制作过程中有着相当大的话语权,无论是分镜、编剧、原画、后期、配音,都是以尊重导演的意见为中心,因此日本动画导演的作品有相当明显的个人风格,观众也能从电影传达的价值观中窥见导演自己的精神世界。例如,以创作“纯爱动画电影”闻名的新海诚,几乎每一部作品里都会出现一位“独立洒脱、有时有点冒失、身材一般都不错”的姐姐,她们常常以配角的形式出现在男性主角身边,戏份并不是很多,但总能在男主角失意的时候用三言两语点醒他。被誉为“日本动画界的传奇”的宫崎骏,他的个人风格则更为明显:作为飞机制造师的儿子,经历过第二次世界大战的伤痛后,每一部作品都是以反战或环保为主题,故事背景跳脱于现实世界,有着宏大的世界观,场景通常是在欧洲,对画面中的一切都进行精准细腻的刻画——尤其是机械和飞行器。
随着宫崎骏因为年事已高而数次宣布退休、吉卜力工作室辉煌的渐渐退去,越来越多的人把目光聚焦在了细田守身上,将这位同样以作画细腻为著称的导演誉为“宫崎骏的接班人”。事实上,如果我们重新回顾细田守这些年来不同时期的作品,就会发现他并不是为了成为传奇的接班人而努力至今的——细田守创造的是属于他自己的小人物王国。
人过了夏天就会成长
《龙和雀斑公主》里,铃和龙的关系致敬了童话故事《美女与野兽》:人人喜爱的美女和被视为破坏者的野兽,城堡里的玫瑰藏着野兽的秘密。在这个故事的基础之上,细田守为龙的秘密加上了更为现实主义的背景因素——铃在城堡中穿梭时,注意到了墙面上破碎的母亲画像。龙在现实中的本体惠和他的弟弟从小失去了母亲,终日在父亲的家庭暴力中度过,龙背上的花纹是他常年经受暴力的痕迹。
细田守所创作的大多数电影主角身上,都有着他自己的影子。他出生于1967年,父亲因为工作繁忙常年不在家,被母亲独自辛苦抚养长大,加上语言障碍和口吃,从小就有一些自卑。因此,细田守创造的许多电影角色,和《龙和雀斑公主》里的惠一样,他们家庭都是不完整的:《狼的孩子雨和雪》里,女主角是一位单身母亲,含辛茹苦独自抚养狼人孩子;之后,细田守更是把自己童年时期缺失的父爱寄托在电影《怪兽之子》上,为失去双亲的男孩九太塑造了一个性格鲁莽的熊怪师傅,如父亲一般带他经历人生的历练。
无论是动画电影还是真人电影,父子关系始终是日本文艺作品反复探讨的主题,父子之间疏离且克制的亲情关系,放大镜一般反应出了在日本传统社会观念影响下,世俗化的父权主义导致的情感表达能力的缺失——父亲很难平等地与自己的子女进行沟通和对话,也不会站在子女的角度考虑他们的处境。《龙和雀斑公主》直截了当地揭露了日本家庭暴力问题的冰山一角:惠和他的弟弟仅仅是在自己的房间里听铃唱歌,就被破门而入的父亲揍了一顿,理由是“打扰到了他工作”。家庭暴力发生的起因从来不是因为受害者真的做错了什么,本质原因在于施暴者认为他的身份在家庭中处于优势和掌权地位,在缺乏处理情感关系能力的同时,习惯于在家庭这个小型社会中建立通过恐吓和控制造就的秩序。
为了拯救惠和他的弟弟,铃只身赶到东京保护了他们,少女抛下了了过去自卑懦弱的自己,她前所未有坚毅的眼神吓到了惠的家暴父亲,这个家庭的力量核心地位第一次受到外界的质疑——这才让父亲开始尝试直视孩子们的情感需求。
细田守电影里的母亲,多数都是困苦的。《龙和雀斑公主》和《怪物之子》里的母亲都在主角童年早逝,《狼的孩子雨和雪》里的单身妈妈因为早孕而大学辍学,为了避免邻居之间的诽议只能带着两个孩子搬去一无所有的乡间居住。尽管《狼的孩子雨和雪》在上映之后获得了日本电影学院奖,收获了不俗的票房和口碑,但对于社会和性别观念逐渐进步的观众来说,这也是一部充满争议性的影片,“母鸡式”含辛茹苦培育孩子、舍弃自己美好青春和未来的母亲形象已经不再受到当今价值观的认可,这加重了“女性必须奉献自我”的刻板印象。
事实上,和细田守作品中缺失的父爱一样,他笔下的每一位母亲,也都是对自己母亲的一种致敬。被母亲抚养长大的细田守,他对动画的热情和爱好也是起源于母亲——1979年,母亲带他去电影院看了当年宫崎骏执导的首部动画长片《鲁邦三世:卡里奥斯特罗之城》,被电影里精妙的画面和宫崎骏创造出的奇幻世界所吸引,从此对动画产生了浓厚的兴趣,并且励志长大以后要和宫崎骏一起工作。
如果说,《龙和雀斑公主》里的惠代表了细田守对亲情的价值观,那么因为童年阴影而再也无法开口唱歌的铃,就是细田守对自己大起大落的职业生涯的一种回顾。
少年励志成为动画家的细田守,开始不懈地练习自己作画水平。他在高中时期尝试制作动画短片,画了一千多张原画,拍摄了一部1分多钟的动画短片,拿着这部动画参加了当时东映的动画师征选比赛,并且成功入选。但当时细田守的目标只有一个——入职吉卜力,和宫崎骏一起工作,因此他拒绝了东映的请求。
在大学期间,细田守开始尝试拍摄真人电影,并且制作了超过五十部真人电影,为日后他成为动画电影导演打下了专业的基础。大学毕业以后,准备充分的细田守决心参加吉卜力工作室的入职考试,考官要求考生交出两张原画作品,细田守则信心满满地交出了一百五十幅作品,无论是质量还是数量都远远超过了入职考试的要求。当人生理想终于近在咫尺,即将实现时,细田守却收到了宫崎骏亲笔写的落选信。在信中,宫崎骏指出:“你如果进入吉卜力的话,你的才能一定会被磨耗殆尽,所以我们才没让你通过测验。”
与梦想失之交臂的细田守并没有因此放弃,最终选择入职了东映动画公司。彼时,以制作tv动画为主的东映动画公司如日中天,细田守在东映参与制作了包括《灌篮高手》、《数码宝贝》、《少女革命》等知名动画,并在1991年跃升到了导演一职。沉淀了九年动画制作经验的细田守,在1999年导演了《数码宝贝》的第一部动画《数码宝贝:滚球兽的诞生》,该作以细腻的作画、诡秘的叙事风格、以及贯穿全动画的一首与《数码宝贝》基调相差甚远的《波莱罗舞曲》作为配乐,在众多流水线下制作的粗糙tv动画中脱引而出,成为了后来《数码宝贝》迷心中当之无愧的经典之作。一年以后,细田守紧接着在此作基础之上制作了剧场版《数码宝贝:我们的战争游戏》,获得了空前的欢迎,一跃成为日本动画界万众瞩目的新星,同时引起了吉卜力工作室的注意。
宫崎骏向细田守伸出了橄榄枝,邀请他担任吉卜力工作室下一部新片《哈尔的移动城堡》的导演。这是细田守第一次有机会能够导演长篇动画,他义不容辞地答应了宫崎骏的邀约,暂停了他在东映的工作,并且利用自己的名气号召了一批业内的好友和有实力的创作者们,组建了自己的团队,开始投入到《哈尔的移动城堡》的制作当中。然而,经过了八个多月的制作,电影仍然焦灼在画分镜的阶段,细田守遭到了吉卜力工作室的制作人铃木敏夫的辞退——铃木敏夫对他说:“细田,你已经江郎才尽了。”
时年,细田守仅仅三十五岁,职业生涯的高光时刻不过才过去了一年。
《龙和雀斑公主》的铃似乎比细田守本人更加好运一些:她对音乐的敏感和唱歌的才气是与生俱来的。她没有经历过太多的专业训练,在小的时候就可以和母亲一起靠电子琴和手机软件创作歌曲,天生的好嗓子给她带来自信,母亲一直在她成长和追求梦想的道路上给予支持。母亲过世后,铃失去了精神支柱,再也唱不出来歌了——曾经的梦想成为了击碎她信心的凶器,ktv里的同学把麦克风举到她跟前,像举着匕首一样把她团团包围。在同样的语境中,被业界顶尖制作人辞退的细田守也遭受了和铃一样的质疑,他开始对自己的才华失去信心,回到东映工作以后,给高层提交的长篇动画企划案也被屡屡拒绝,职业生涯跌入了低谷。就在同一时期,一直以来支持细田守追求梦想的母亲也陷入了病重,他需要考虑返回老家照顾母亲,还是继续留在东京追求动画梦想,成年人现实的困境远比动画本身残酷得多。
铃在现实中失去唱歌能力、只能在虚拟世界U里放声歌唱的设定,看似是为了动画剧情而做出的特殊编排,其实这种现象是所有创意工作者们在遭遇创作瓶颈期的真实困境:他或许可以尽情地在脑海里尽情浮想联翩、描绘出鸿篇巨制,但是在现实世界中自己却始终下不了笔。一个才子对自己才华的否认是最大的悲哀,因为释放才华从某种程度上来说需要依赖于对自己能力的自恋,他们相信自己超乎普通创作者的审美和创作手法能够获得成功,能够打破世俗的眼光,这就是为什么所谓创作奇才的作品往往有着超越常人的大胆想象力和表现手法。《数码宝贝:滚球兽的诞生》和《数码宝贝:我们的战争游戏》本是这样一类的作品,前者单靠一首波莱罗舞曲作为配乐贯穿全片,作为子供向动画叙事诡异、跳脱现实;后者在千禧年向初次接触网络世界的人们描绘了一个宏大的实体化的网络战争,而这种让虚拟世界和现实世界大通、让人类沉浸在虚拟现实的表现手法,在20年后的今天被正式定义为了“元宇宙”,细田守早在20年前就在动画里想象了出来。
2005年,在人生低谷沉寂多年的细田守被著名制作公司MADHOUSE的制作人丸山正雄挖掘,邀请他担任《穿越时空的少女》导演一职,本以为自己再也没有机会制作动画电影,突如其来的机会让细田守重新燃起了作为动画导演的觉悟。这部电影制作成本有限,画风中透露着一丝简陋,但通过细田守巧妙的分镜和剪辑手法弥补了画面的缺陷。也就是从这部电影开始,细田守的作品出现了他真正标志性的记号——夏日晴朗天空中的积雨云。
积雨云云体庞大、孕育着雨滴,就像渐渐成长的人一样。因此,每当他笔下的角色经历困难,终于有所觉悟的时候,电影画面就会切换到晴朗的蓝天,一朵松散膨胀的积雨云正在慢慢向上生长。《龙和雀斑公主》的第一朵积雨云出现在铃鼓起勇气和瑠果敞开心扉,讲述自己的童年创伤、对青梅竹马的爱恋,为后来铃放下过去、面对真实的自我而放声歌唱埋下了伏笔。
《穿越时空的少女》上映后,获得了极佳的票房和口碑,从最开始仅仅6个影院的排片量扩张到100多个影院,无数影迷被细田守笔下细腻的情感表达所感动。那个被周围人都不看好的动画导演——重新带着才华回来了。“我总觉得,人在夏天更容易成长。”细田守说,“在炎炎夏日,人也蜕了一层皮,会有那么一天经历了重要的人生体验,仿佛蜕变了一般。”
细田守的元宇宙战争
《穿越时空的少女》大获成功以后,细田守带领着同样的团队继续制作了有着他强烈个人风格的第二部长篇动画电影《夏日大作战》。同样的夏日、同样的积雨云,同样的还有他在2000年导演的《数码宝贝:我们的战争游戏》中曾经出现过的虚拟世界。
如果我们把2000年的《数码宝贝:我们的战争游戏》、2009年的《夏日大作战》和2021年的《龙和雀斑少女》放在一起看,就可以发现三部作品实际上是细田守对于他所创造的虚拟世界——即如今的元宇宙的一种深入探索和优化。
2000年正值互联网热潮,人们开始逐步学习适应网络的双向通信便利,在《数码宝贝:我们的战争游戏》里,细田守设计出了动画元宇宙世界的雏形:数码宝贝可以像电子宠物一样被养育在网络世界里,但这个世界同样也出现了以吞噬网络数据为生的病毒数码宝贝,它们对网络数据的肆意破坏导致了人类现实生活一切依靠电子运转的机器瘫痪,人类的生活遭到了严重的影响,甚至危及到了地球的安危。细田守把目光聚焦在了互联网自身的安全和漏洞问题上,第一次向人们展示了隔离在电脑屏幕背后的网络世界将会以什么样的形式与现实世界打通。随着科技和网络的发展,杀毒软件、防火墙和技术维修人员已经足以应付网络病毒,细田守在《夏日大作战》中引入了人工智能的概念,同时也扩大了他所描绘的虚拟世界的更多可能性,让人类也可以进入虚拟世界:OZ是一个通过手机、电脑、电视等多种电子设备媒介皆可登陆的虚拟世界,人们可以自由设定他们在OZ中的形象,可以在OZ中娱乐、购物、甚至购买房产、汽车、旅行、运动,企业在OZ里有自己的办事处,政府机构和自治团体在OZ开有窗口,人们可以尽情地在虚拟世界中解决现实生活里的问题——与现在元宇宙的概念如出一辙。
作画技术的发展让《夏日大作战》表现的元宇宙场景效果远远超越了9年前《数码宝贝:我们的战争游戏》里的虚拟世界。为了表现出虚拟世界战争的宏大和紧迫感,细田守利用不断弹出的多国语言对话框、密密麻麻围观战斗的虚拟人物、眼花缭乱的色彩特效,在狭小的电影银幕上制造了一个宛如囊括四海的无边世界。同样的表达手法在12年后的《龙和雀斑公主》再次升华。这一次,在U的宇宙中,细田守有意选用了曾经在《夏日大作战》中同样出现过的元素,例如铃的第一个粉丝——那只半透明、长着翅膀的小人。它也是《夏日大作战》中是第一个站出来,把自己的账号捐献给女主角的用户:
《夏日大作战》的OZ宇宙里因为出现了个好斗的人工智能,导致大量用户的账号失效,到了《龙和雀斑公主》的U宇宙里,这位好斗的反派角色就成为了龙——一个有着真实情感的人类用户。在其他用户眼中,龙是虚拟世界里喜好暴力的异类,而铃却试图了解他。
有一个精通电脑、面对网络战争依然能冷静、为主角出谋划策的死党:
两代世界中的npc皆为鲸鱼,细田守为它们设计了同样喷烟花的场景:
在围观的虚拟角色设计上,群众角色也得到了深化设计,突出了U宇宙更多元化的审美:
从画面表现力来看,U宇宙的精美程度远远超越了过去两部作品,过去考虑到技术的局限和成本问题,只能通过眼花缭乱的色彩冲击来加强虚拟世界的震撼感,在《龙和雀斑公主》中,U世界的环境设计更贴近于我们的现实生活,增加了沉浸感,而基于生物特征计算出的个性虚拟形象设计则凸显了U宇宙广阔的可能性。
也就是说,细田守在《龙和雀斑公主》中创造的U宇宙,实际上是对他过去20多年职业生涯两个重要里程碑的回顾。检验自己累积更多经验之后,再次表达同样的主题,是否能够突破自己过去的成就。《数码宝贝:我们的战争游戏》里打败的敌人电脑病毒、《夏日大作战》里打败了人工智能、而在《龙和雀斑公主》里,铃需要打败的却是她自己——一个自幼不敢面对的真实自我。这场战争不只是对铃,同时也是对U宇宙里活在虚拟面具下的每一个用户。在这20年的时间沉淀中,细田守把自我的苦痛分解在了一部部不同电影角色的身上,这是一场只属于他、始终为自己而战的战争。